言葉を使うということ

すなわち人生

好きと嫌い その2

好きだった人を嫌いになるのは悲しいから、

キングコング西野さんのことみたく嫌いな人のこと好きになってくほうが幸せだね
だから嫌いな人がいると言うことはいいことかもしれん。悪いことではないかもしれん。

 

好きと嫌い

簡単に裏返るね

 

小説が好きだったのに小説を見るのが大嫌い

小説が好きだったのに小説を書く奴が嫌い

小説家になりたかったのにそう思う自分が嫌い

 

言葉を愛していたのに言葉の無力さに辟易した

言葉を愛しているのに誰の言葉もきちんと受け取れない

言葉を愛したいのに何の言葉も発せない

 

彼のことが大好きだったのに傷つけることばかりしてしまう

彼のことが大好きだったのに離れたがってしまう

彼のことが好きだから今もこうして不安なのに

 

キングコング西野さんのこと大嫌いだったけど

サカナクション山口一郎のこと大嫌いだったけど

 

簡単に裏返るね

確立

去年くらい。

僕らの勇気未満都市が20年ぶりに新しく放送されたくらいから、20年前の自分がなりたかった自分に今なれているだろうか? というようなことばかり考える。

そのくらいから何となく世間が90年代の様相を醸し出していて、わたしの脳波も90年代にチューニングを合わせようとしているのだけど、如何せんバカ脳なので00年代あたりでしかチューニングが合わない。

00年代頃のわたしは小説を書くことだけが楽しくて、それ以外は毎日が悲しくて、だいたいの人は嫌いで、お酒を飲むことと煙草を吸うこととライブへ行くことが生き甲斐だったけど、やっぱりほとんど悲しくて、孤独だった。家族もいるし裕福だったし、友達もそれなりにいたけど、ずっとずっと寂しかった。

たぶんこの先もこんなに悲しくてやるせなくてやり切れないのだと思っていたから、とにかく小説だけは大事にしようと、すべて小説に還元できればと色んな物事に足をつっこみまくっていたら、00年代も終わり、10年代へ突入しようかという頃、魂の片割れに会ってしまった。

それからわたしは彼の魂と元の一つの魂に戻りたくて、それだけを念頭に置いて、大事だった小説をいったん自分の奥底へしまった。

 

わたしたちの魂は、いま再び一つに戻ろうとしている。

わたしは、魂が一つに戻ることができれば、自ずと自分のあるべき方向へと導かれるように辿り着くことができ、自分がこの場所に生を受けたことに安心し、なんの不安もない境地に、半ば自然に到達するのだと思っていた。

魂がいま再び戻ろうとしている最中、わたしはわたしの魂の資質を片割れの魂に問われる。

リアルタイムでやっていた僕らの勇気未満都市を見ていたころ、わたしはずっと不自由だと思った。それは子供だったから。不自由だったのは、子供だったからで、子供だったから自分でも自分が恥ずかしくなるくらい未熟で、未熟だからこそ不自由で、そんな自分が嫌だった。

だから早く大人になって、一人で生活をして、自分で選択したものだけに囲まれて、自分の行動すべて責任を持って、自由になりたかった。

 

時は20年代へと突入しようとしている。私が生まれた時に始まった平成ももう終わる。

29歳のわたしは、ほとんどを片割れの魂のせいにして、見せかけの自由のもとで今日尚も不自由だった。いや、不自由だとも思ってなかった。ただ漠然と「なんか何かが嫌で、なにかがしっくりこない」と感じていた。

好きな人と好きなように暮らしていて、三食全てをマクドナルドで済ませたことを言っても、誰も怒らないし、怒るどころか笑ってくれたりするし、確かに生活のために仕事へは行かなくちゃいけないし、学生のころみたいに早引けしたり遅刻したり、自分の都合ではなかなかできないけれど、それは「仕方ない」し、この自由な生活を維持するためだけに必要な代償であり、大人としての「責任」だと思っていた。

そういう自分の中で感じている不快感に全く気が付けなかった。子供のころのわたしと違って、それは自分の未熟さのせいだと、全く、これっぽちも気付いていなかった。

そう言う自分の感情の機微に気付けなくなったことも、全て大人になってしまったからだと思っていた。(それは一理あるのかもしれないけれど)

社会の荒波に揉まれ、わたしが自由に使うことのできた言葉のパレットはどこかへ落としてきてしまったのだと思っていた。さっきも言ったけど、自分でまた必要な時が来たら使おうと、奥底へ閉まっていただけなのに。

本当はこのブログだって、最近ずっと心が本調子じゃなくてしんどいし、自分が何になりたいかどうなりたいか全然分かんないし、頑張って自分を輝かせようと一生懸命な人を見ると泣いて暴れたくなるくらい悔しくてたまんないってことが言いたくて書きだしたのに、わたしが生まれて初めて自分で「選択して」手にした言葉のパレットは、わたしに尚も優しく、こんな前向きな文章を書かせてくれる。

 

やっぱりわたしはこうやって文章を書いていきたいし、書ける。

(タイトルは14歳ごろの私が固執していた言葉)